徒然草 現代ver ー秩序のない現代にドロップキックー

現代社会に対する、筆者独自の考え方を紹介しております。一人でも多くの人のこころが豊かになりますように。。

「おしゃれ」ってダサくない?

筆者の友達にはおしゃれな人が多い。

 

チェスターコートに身を包み、きれいめなTシャツに黒スキニー。さらには指輪やネックレスなどの装飾品でアクセントを出し、足元はドクターマーチンの革靴。

 

「今年のトレンドは○○だよ」

「あのブランドはダサいよね」

 

そんなおしゃれ談義を繰り広げ、挙句の果てには仲間内でファッションチェックが行われる始末。

 

彼らはみんな、おしゃれが大好きだ。

流行に乗り遅れぬように、常に最新の情報を追い求め、

バイトで稼いだお金はみな、毎月のお洋服代に溶けていく。

 

大学生になり、急にファッションに目覚める人も少なくない。

 

筆者も、久々に地元の友達とご飯に行った時に、友達のあまりの変わりように驚いた体験をしたことがある。その友達は高校時代、ファッションには無頓着で、外出時にはいつも全身ジャージだった。さらに彼は、彼女との花火大会に、高校の体操着で出席してしまった強者である。(それはやりすぎかも)

 

そんな彼であるが、先述の食事の際に、拙いながらも頑張ってコーディネートをしてきたのだ。同席していたファッション上級者の友達には「ダサいw」とからかわれていたものの、高校時代からは考えられないような変わりように、私は驚いてしまった。

 

彼が言うには、大学に入り、様々な出会いの中で自身の見識が広がり、身だしなみを整える必要があることに気が付いたようだ。

 

どうやら周りの大学生はみな、ファッションに気を遣っているため、そんな中で自分だけ高校時代のように全身ジャージで人前に出ることに、恥じらいを感じるようになったのだ。

 

そして周りと自分とのギャップを埋めるべく、ファッションについて知り始め、少しずつ周りと同じような恰好ができるようになり、現在に至るようだ。

 

 

ここで筆者にある疑問が生じた。

 

「おしゃれ」って、ダサくない?

 

 パラドックス的な文章であるが、筆者はこれを強く感じたのである。

 

筆者の認識では、「おしゃれ」とは、

他者に「カッコイイ」と思ってもらうために、身なりや服装を洗練すること

だと考えている。

 

では、先ほどの彼はどうだろうか。

少なくとも私は、彼のことを「カッコイイ」とは思えなかった。もちろん、見た目は進化している。かつてのジャージ姿に比べれば、かなりキレイになった。

しかし、彼の恰好は、周りの大学生の真似。彼は没個性化し、多くの若者の中に埋もれてしまったのだ。

 

このことは彼以外にも、多くの若者に当てはまるだろう。

筆者のインスタグラムは同年代のフォロワーがほとんどなのだが、彼らの投稿を見ていると、ほとんどの人物が同じような恰好をしているのだ。

 

なぜなら彼らはみな、「流行」という、全国共通の情報を追い求め、一斉にその真似をするからだ。

 

それが彼らの「おしゃれ」なのだ。

 

ここまでの文章を納得して読み進めてもらえた方にはわかってもらえただろうか。

如何に「おしゃれ」がダサいか、ということが。

 

少々御幣を招く言い方になってしまった。ファッションを愛し、自分の表現方法の一つにしている方々にはお詫び申し上げたい。誤解しないでいただきたいのは、筆者の「おしゃれ」は、上記で申し上げたような特定の場合のみを指す、ということである。

 

話をもとに戻す。ここまで筆者は「おしゃれ」を批判するのみであったので、これより、筆者が考える「かっこよさ」について述べていきたい。

 

先ほどの彼の例では、「おしゃれ」を始めるモチベーションとして、他人に見られても恥ずかしくない恰好をしたい、という思いがあった。

 

が、筆者はそこが引っかかる。

 

 単に見た目の評価だけでなく、

「他人にどう見られているかを過度に気にし、自分の個性、こだわりを曲げてしまった」

という過程まで考えると、私は彼のことをかっこいいとは思えないのだ。

 

筆者の「かっこいい」の定義は、

「自分」をもっていること

である。

「自己」を受け入れることができる人。

誰に何と言われようと決して曲げることのない一本の芯を自分に通している人。

筆者が憧れるのはそのような人物だし、自分もそうなりたいと思っている。

 

どんな人間にも長所と短所(筆者的には長所、短所という表現は適切ではないと思っている。あるのは事実のみであり、それらを各々の都合に合わせて「長所」「短所」に分類しているだけ。このことも後日記事にしようと思う)が存在し、多くの人々は、短所を隠そうとする。なぜなら人は他人に良く見られたいからである。このこと自体はふつうであるし、自分を向上させるための努力だから、むしろいいことである。

 

ただ問題なのが、自分が大切にしている部分を短所だと認識してしまった場合である。このときに、何としてでも、その大切なものを曲げないようにしたい。

 

他人の目がそれほど恐ろしいだろうか。「自分」を曲げてまで、自分をかっこよく見せなければならないのだろうか。

 

他人の評価ばかりを気にしすぎるあまり、自己を否定し、

他人が決めた評価を模倣するだけの「おしゃれ」なんかダサいよね。

 

 

自己を受け入れ、そのうえで自分のすばらしさをアピールできる人のほうが、

確固たる「自分」をもっている人の方が、

 

よっぽどカッコイイと思わない?